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はじめまして!

YOICHIです 。

本日は当WEBサイトにご訪問頂きまして、ありがとうございます!

僕は40代でスキルゼロ、知識ゼロからWEBマーケティングを学んでいます!
僕がなぜWEBマーケティングを学ぶことになったのか?

ここでは、その理由を僕のプロフィールと一緒にご紹介します。

運営者プロフィール

ー基本情報ー

・名前  :YOICHI
・生年月日:1976年8月生まれ
・出身  :兵庫県出身
・職業  :会員制Cafeの店長
・趣味  :映画、読書、お風呂(温泉、スーパー銭湯)
・性格  :とっても優しい とっても明るい

幼少期

福岡県の八女市というところで、長男として誕生しました。
のちに2歳下の弟、8歳下の妹ができ、3人兄弟の一番上として育てられました。

育ったのは兵庫県尼崎市。
自営業の父と超働き者の母のもとで、何不自由なくスクスクと育ちます。

小学生時代

持ち前の明るさと元気があったのでクラスの中でも目立つほうでした。
運動も勉強もソコソコできるお調子者タイプ。

まあまあ人気者だったと記憶しています。

弱点だったのが授業中に先生に当てられて答えられないと恥ずかしく思ってしまい、声が出なくなってよく泣いていました。

「また泣くんか?」と先生に毎回言われてました。

普段は明るくてお調子者なのが余計に恥ずかしくて、悔しくて、情けなくて自分でもなんでこんなに感情が抑えられずに泣いてしまうのかよくわからなかったです。
一方でその豊かな感受性のおかげもあって友達の感情はよく理解でき、優しく寄り添うことが得意でした。
その繊細な感覚は今も残っています。

ちなみに泣き虫は中学1年まで続きました。

中学~高校時代

クラブ活動はサッカー部、そして楽器にもハマりバンド活動も並行して始めます。

勉強も頑張っていて充実していましたが、小学校の時とは違い、気が弱い性格が浮き出てきて、どこの集団に所属していても軽くいじめられたりしていました。
だんだん自分の存在価値を認められなくなっていき、勉強することが頑張れなくなっていました。

最後までクラスでキラキラしている人達の輪の中には入れなかったです。

進路を決めるときには、父親が自営業をやっていたことを小さいころから見ていたのが影響したのか、将来的にサラリーマンにはなりたくないという想いが強かったです。
もっと具体的に言うと集団に所属するのが苦手で、縛られるのが嫌でした。

その象徴がサラリーマンだと思ってました。

とはいえ、何をしていいのかわからずにダラダラ過ごしていたら母親から
「将来何をしたいのかがわからないなら、とりあえず大学に行ってから考えれば?」というとても有難い提案をしてもらったのですが、それさえも押しつけに感じられ、ただただ時間を無駄にする気がしたので「何か自分が好きなことを職業にしたい!!」と当時真剣に取り組んでいたギターが学べる学校を見つけて音楽の専門学校に進みます。

専門学生時代

大好きなギターをプロから習える!しかも周りはみんなプロになりたくてここに学びに来ている。寝ても覚めても音楽の話ができ、先生も現役プロが多かったのでとても刺激的な生活を送っていました。

ほんと最高に楽しかったです。

ここでめちゃくちゃ頑張ってプロになってドームや武道館のステージに立ち、何万人といる観客が自分の音楽を聴きに集まってくれている、そんなことを想像するだけで興奮が止まらなかったです。僕は夢を追いかけている!そう初めて実感していました。

しかし、それは急に訪れます。
僕は半年で学校を辞めてしまうのです。

音楽の勉強は楽しかったのですが、ここで集団が苦手だった性格が出てきます。

それを乗り越えてでも、やりたい!と強く思ったはずだったのに自分に負けてしまいました。
「本気で変わりたい!」と思っていたのに、です。

音楽の世界(学校)でのし上がるのは自分の個性を強く出していかないといけない、まわりの人間はそれが出来ている。僕はやりたいと思っているのに出来ない、出したくても出せない、出し方がわからない、やっぱりダメなんだ。周りはめっちゃキラキラしている。
「本当に好きでやりたいことだと思っていたのに、そうじゃなかったのだろうか」結論は出ないまま弱い自分に負けてしまいました。

当時の僕にとって夢は叶わないと思うには十分すぎる大きな挫折でした。

お金を出してもらった両親には本当に申し訳ないことをしました。

やっぱり口だけ根性なし!のレッテルが友達の間でも貼られたように感じていました。

20~23歳:サラリーマンになりたくない!

その後は半年間、アルバイトで過ごします。

そのまま就職する気にもなれず、父親の自営業が建築関係だった影響を受け、建築の専門学校に入学します。

卒業間近になり、周りはドンドン内定が決まっていく中、僕は全く就職が決まりません。
最後の最後にここは絶対受かるからと言われたところも落ちてしまい、就職活動することも辞めて、そのまま卒業になりました。

就職氷河期世代なので、そのせいにしたかったですが、今思うと

このときも、集団に属するのが苦手というバイアスがマイナスな気持ちに働いていたと思いますし、サラリーマンになりたくなかったのだと思います。

さすがに仕事は見つけないとと思い、求人誌から高級リゾート施設を紹介するフルコミッション制のテレアポ営業を見つけ、完全実力主義という文句に惹かれて入社することになりました。毎日朝から晩まで電話をかけ続ける日々が始まります。

職場は女性メインの6名くらいの小さな会社です。事務所も狭く営業電話の声はまる聞こえで、僕がクロージングまで持ち込めそうだと上司が隣に来て、机をバンバン叩き始めます。

まるでもっと行け!もっと行け!とめちゃくちゃ煽ってくるのです。

その商談を逃そうものなら、その後のこっぴどく叱責されるので、クロージングまで持ってくのが嫌で嫌でたまりませんでした。

長く続くわけもなく、この職場は辞めてしまいました。

その次に入った会社はスキューバダイビングの会社。
遊びを仕事にできる、楽しそう!やってみたい!

そんな安易な理由だけで入社しました。

服装自由、髪型髪色自由、アクセサリーなど何ひとつ制限がない自由な風土。50名ほど社員がいましたが、20代前半がほとんどでした。

この会社も売上主義で、日販という毎日の目標があり、売上さえ上げていれば何も言われないのですが、売上がないと帰れないので、夜22時からテレアポしたり、繁華街に繰り出してナンパをして見込み客をつくるということをしていました。

無料のアンケートを持って声をかけ、少しでもスキューバダイビングに興味をもった人に詳しい話を店舗でしようと連れていく、いかにも怪しいやり方をしていました。

それでも僕は話が上手かったみたいで契約はよく取れている方でした。店舗でのクロージング率も50%越えるようになり、毎月の売上も社内No.3くらいまでになっていました。

そして20万~50万の契約がバンバン取れるようになると、クロージングが面白くなってきて他の商談の席に相席させられることも多くなり、どんどん契約を取っていきました。それが認められ、真面目な性格も手伝って若くても昇進できるというロールモデルを作るために「係長になれ」と言われ、たった半年で飛び級で昇進してしまいました。

その時はまだ23歳でした。

ほかの係長は全員30歳越えで、僕の下についた部下も全員年上、やったことないマネージメントをやることになりました。
そのまま順調に進むかと思いきや、ここから一気にどん底に落ちていきます。

8名のチームを受け持つことになったのですが、全員の売上目標を合わせると、一日当たり約30万になります。それを無理にでも達成させるため、とにかくお客さんをつれてきてもらい、強引なクロージングをして契約を取ってました。
無理をしたそのやり方ではうまくいくはずもありません。

後日契約をいただいたお客様からやっぱり解約をしたいと親が同伴されたり、消費者センターに呼び出しをされるなど、本来の「ダイビングが楽しい!やりたい!」という相手の気持ちを尊重し無理なく継続していく提案をせずに売上を最優先にした結果、様々な問題が発生します。

無理に契約をとっているので、一緒に同席しているスタッフからも「なんであんな言い方するんですか!」と強い口調で言われることもありました。

当然チームの信頼もなくなっていき、「売上げを上げるためだから、仕方ない」と自分に言い聞かせた結果、ダンダンと心の中と行動がちぐはぐになっていきます。
その状況でも毎日売上を上司より詰められることに心が疲弊していきました。

上司にも期待外れだとレッテルを張られてしまい、「自分でなんとかしろ!」と助けてもくれなくなり、僕は心のよりどころもなくし最終的にはとうとう会社にもいけなくなりました。

また自分で体験しないとお客さんにも説明できないということで、仕事のためにスクール代、機材代などに総額150万ほどをローンで組んでいた分は全て借金として残ってしまいました。
自分の考え方の甘さや未熟さがこのような結果になったのだと悲観していました。
そして、このローンをしたことから徐々に金銭感覚が狂ってしまします。

23歳~:誰にも言えない

生活資金も足りません。だけど遊びのお金も欲しい。

そしてついに消費者金融にお金を借りてしまいます。

一線を越えると心理的にも簡単に借りれるようになり、そこからはあれよあれよと気づいたら4社から満額お金を借りていました。

満額は1社50万です。

当時は消費者金融の金利が年29.2%でした。(2023.6月現在は年18.0%が主流)

毎月の返済が1社3万円、4社なので12万。

(1社の3万のうち内訳は2万5千円は利息に消え、元本が5千減るだけです。だいぶヤバいですね笑)

家賃などの生活費、そしてダイビングの借金もあり、毎月の必要額だけでも25万ほどありました。
1社に返済して、すぐ引き出して、他社の返済に充てる。返しても返しても減らない、そんな自転車操業の生活を3年ほどしていました。

そのころには借りることにも借金があることも普通になり、何も思わなくなっていました。

もちろん誰にも相談できなかったです。

28歳:突然の宣告

いっぽう仕事では建築関係の会社に就職できて、やっとまともな会社で働けることになりました。

仲間にも恵まれ、借金はあるものの楽しい日々を過ごせました。

28歳の11月初めに、母親より「一緒に病院に行ってくれない?」と相談を受けました。

なにやら父親の体の様子がおかしくて、検査入院しているので先生からの検査結果の説明を一緒に聞いてほしいとのこと。

この日は平日でしたが、母親の雰囲気から緊急性を感じたので会社に休みを貰いました。

診断の説明部屋に入り、軽い挨拶のあと、先生が無言で前のホワイトボードに病気部分と思わしき写真を貼っていきます。1枚、2枚、3枚、4枚、、、

そして一言、

覚悟して聞いてください、はっきり言います。肺がんが原因で至る所に転移がみられ、症状はステージ4です。今の段階で、もう手術はできません。何もしなければ余命は3カ月です。

まるでドラマのシーンみたいに、目の前が真っ暗になりました。

助かる方法はないのか、どうすればいいのか、すがる思いで必死で聞きましたが、今できることは少しだけ余命を伸ばせることができるかもしれない抗がん剤治療だけでした。

先生には今日は父親に会わずに帰った方が良いと言われたのですが、たまたまエレベーターの待合でバッタリと会ってしまい、その時の父親はとても笑顔で僕はその顔をまともにみれませんでした。

この時はまだ全然元気でどうみても余命3カ月には思えませんでした。

そこからはドンドン痩せていき、食事もとれなくなり、点滴をする毎日の中、僕と母親は父親に余命のことを話すことができませんでした。

僕の中で認めたくなかったんだと思います。

話してしまうと、それを自分で認めたことになってしまう。それをどうしても受け入れれなかったのです。

本当は話さないといけないってずっと思っていました。でも、そうしたくてもどうしてもできませんでした。

そして、もう何も治療ができない段階まで来た時に
最後だから正月は家に連れて帰って良いと退院許可が下ります。

正月はほんとうにたくさんの人が来てくれました。

父親はもう座っていることもできないので、横になった状態でしたが、みんなの顔が見れて嬉しそうでした。

そして、二人っきりになった時、天井を見上げながら、細い声でこう言ったのです。
「田舎から一人で出てきて、仕事も頑張って、家も建てて、3人子供も育てられた、これで良かったんかな」と。

僕はびっくりしました。
ずっと悟られないようにしてきたつもりだったからです。

もう死をわかってて、それを覚悟してたのだとすぐにわかりました。
それをずっと誰かに伝えたかったのだと。

父親が泣いているところを初めて見ました。

僕は「病気を早く治して、春になったらみんなで桜を見に行こう」としか言えませんでした。

余命のことは、この時も言えませんでした。

伝えていれば、みんなに最後に言いたいことを言えたかも知れません。
本当は言いたいことがあったはずです。

でも、最後まで父親も僕たちが黙っているその気持ちに気づいてか何も言わずにいました。
そして誰にも最後の言葉を残さずに検査結果からちょうど3カ月くらいたった2月に、55歳で天国に旅立ちました。

本当に強くて、とても尊敬できる父でした。

「3か月後にお父さんはこの世からいなくなるかも知れない」

これを言える勇気がありませんでした。
この選択は正しくなかったと今でも思っています。
人はいつか死ぬんだと心から実感した大きな経験でした。

お正月に聞いた「これで良かったんかな?」という父親の言葉がずっと胸に残ってました。

29歳:再びの挑戦

そして1年が経ってだいぶ落ち着いてきたころに
「このまま会社員で良いのだろうか、今は借金を返すために頑張っているけど、あと5,6年頑張れば終わるし、チャレンジできる年齢も限界があるし、もともとサラリーマンになりたくなかったんやろ?失敗したけどまだチャレンジしてもいいんじゃない?」と思えるようになりました。

そこで一度は諦めた音楽をもう一度勉強しなおそうと、とあるレコード会社の学校に通うことにしました。

今度はプレイヤーではなく、誰かをプロデュースできるようにと作曲コースを選択し、平日は課題をこなし、毎週日曜は学校へ、月に一回は夜行バスで東京の学校に通うことになります。

そして年に1回ある校内の大会に出場するため
ボーカル、作詞、作曲(自分)と3人でユニットを組んで、楽曲作成に打ち込みました。
仕事が終わって、夜は作曲をしてパソコンに楽曲を打ち込む日々。

ときにはスタジオにこもってあーでもない、こーでもないとメンバーと意見をぶつけ合いました。

徹夜をすることもザラでした。

その頑張りもあって、1年生ながらなんと全校大会で優勝することができました。
約30組は出場していたと思います。

もちろん僕一人のチカラではなくて、素晴らしい作詞家とヴォーカリストの努力のおかげです。
みんなの頑張りが報われた気がしてめちゃくちゃ嬉しかったです。

僕は作曲家なので本番中にステージに上がることはないですが、観客席で自分が作った曲をみんなが聞いてくれているのを見たときに、ある意味バンドでやりたかった夢がかなったと思えた瞬間でもありました。

32歳:繰り返す挫折、虚無感の再来

そこからは作曲の時間を確保するために、建築の仕事はやめて菓子問屋の会社で営業補佐の派遣社員として働きながら、活動を続けます。
小さなコンペティションにもたくさん出て、賞もいくつか頂きました。

このまま頑張っていれば音楽を仕事にできるかも知れないと現実的にも思えてきました。
そして3年目の実践コースに入ることになります。
ここを卒業して一定の条件をクリアすれば、学校が所属しているレコード会社に登録することが出来ます。
仕事に近い形での実践形式で授業が始まりました。

出題されるテーマに対して、今までより短い期間で作曲をしたり、クライアントがどんなテーマで何を目的にして依頼してきているのか等、レベルの高いことが要求されます。

これまでも期限はあるものの、スケジュールには余裕があり、時間がかかりながらでも出来たのですが、短い期間と具体的に出されるテーマに徐々についていけなくなってきます。

今までは好きなようにテーマを決めてざっくりとイメージをつけて作っていたものが、実際のコンペ形式では細かい指定があり、当たり前ですが自分の好きなようには作れません。

メンバーも毎回変わり、作品を共同作業するのに細かいコミュニケーションも求められます。商業として求められているものを形にしていくことが、とても難しいことに感じられました。

1年目で優勝をしたことや賞をいくつかもらったこともあり、自信満々で挑んだのですが全く通用せず、音楽の世界の厳しさをここで感じることになります。

僕はキーボードを弾きながら譜面に手書きで書いてく作曲スタイルで、その出来た作品をDTM(PCの音楽ソフト)に打ち込んで編曲し、カラオケを作っていてギター、ピアノ、シンセ、ベース、ドラム全部をバランスよく作らないといけません。

DTMは独学でやっていたので、作曲からカラオケまで作り上げるのは1曲あたり20~30時間くらいかかりました。

もちろん1年目~2年目も同じことをしていたのですが、商業のコンペ用となるとイントロで興味を持たれないと初めの10秒も聞かずに落選すると言われていました。
センスよく作るというのはとても難しい作業でした。

ギターの専門学校と同じように周りがステップアップしていく中、できない自分に自信を無くしていき、1年間の休校を申し出ました。

その間、「ここまで苦しんでも本当にやりたいことなのか?自分にはできないのではないか?」などできない言い訳ばかりしていました。
やっぱり独立してやっていくのは僕には向いてないのか?

そんな自分に嫌気がさし、また答えがみつからないまま結局学校に戻らない選択をしました。ギターの専門学校の時と同じ結果となり、全然成長してなかったと自分を責めました。

そして気づいたら音楽が嫌いになっていました。
本気で決心して始めたにもかかわらず、またもやできない自分に負けてしまい、自分に絶望しました。

2度目の音楽へのチャレンジがここで終わります。30歳でした。

33歳:借金完済

派遣先の仕事が派遣法の3年ルールで退職しないといけなくなり、派遣先からは社員になるか、派遣元を変更して続けてほしいという提案をいただけました。

普通に入れば決して専門卒の僕が入れるような会社ではなかったですし、風通しの良い社風で社員のみなさんが本当にあたたかい会社だったので通常であればこんなにありがたい話はなかったのですが、当時の僕は未来に希望が持てず、悲観的な考え方から残っても良い仕事ができるとは思えずにお断りをすることにしました。

最終出勤日には全員が書いた寄せ書きの色紙とプレゼントまでいただけたました。
とても素敵で本当に良い思い出です。

そしてたくさんあった借金ですが、派遣社員のころにちょうど消費者金融の年29.2%のグレーゾーン金利から利息制限法の約18%の金利に再計算しなおして、払いすぎた差額の利息分を返還請求ができる過払い金請求というものがあるというのがラジオで頻繁に流れていたので、自分も対象になるかも知れないと恥ずかしながら勇気を出して弁護士事務所に問い合わせをしました。

過払い金とは、払いすぎた金利の利息分を返還請求できるお金のこと

弁護士さんは優しく、説明も丁寧にしてくれました。

最終利用日から過去10年間まで遡って請求できるため、僕が借り入れをしていたところはほとんど適用されました。

初期費用もいらず、返還金額から費用は相殺されるため、手持ちがなくても利用でき
最終的に約150万円ほどの返還金額から弁護士費用が50万円ほど引かれて、約100万円が返ってきました。

そして返済中だった消費者金融の支払いも相殺され、約10年以上続いた長かった借金地獄から抜け出せました。

そして引き換えに最低でも5年間は借り入れができなくなりますと弁護士さんから言われました。

でもこれで強制的にお金を借りることができなくなったのが本当に良かったです。

自分の未熟さから始まった借金でしたが、この後は借金癖も完全になくなり、そして将来を豊かにするためのお金の勉強を始めるきっかけとなりました。

その後、簿記3級とFP2級の資格を取得しました。

33歳~43歳:10年間という大きな代償

30代に入り同世代で順調にいっている人たちは結婚し、子供を育て、早ければ家を買っている人もいるのに対し、なにもない自分、努力できなかった自分に嫌気がさして、自暴自棄になっていました。

知り合いから誘いを受け、単発のイベントを手伝うアルバイトの仕事をもらうようになったのですが、何をやりたいのかもわからずに過ごすなかで、あるきっかけからパチスロにハマるようになります。
まさに転落人生まっしぐらです。

なんでかグレーなことにハマる気質があるみたいです。笑
ですが、ここでこの後の人生に大きく影響する考え方を手に入れることになります。

若いころに少しはやったことがあったのですが、仕事も辞めてやりたいこともなく、時間もたくさんあるとなって、自暴自棄だった僕にはハマっていくのは簡単でした。

初めはストレス発散のため、「当たったら楽しいくらい!」だったのですが、だんだん通い詰めるようになり、あることに気づきます。
「毎日同じ店に同じ人たちがいる、この人たちは仕事やってないんかな?」

これがいわゆるパチプロ、スロプロの存在です。

年齢は若い子から年配まで様々でした。
そして彼ら彼女らはいつも出していました。

ほとんどの人が負けるはずの中で勝ちつづけているのは2割弱、もしかしたら1割もいないかも知れません。
どうやってこの人たちは毎回高い確率で出る台がわかるのだろうとそのカラクリを知りたくなりました。

調べまくった結果、勝つために必要なことにたどり着きます。

・出玉データがネット上でかなり詳細に公開されている
・期待値という考え方
・確率は試行回数を増やせば増やすほど、その値に近くなっていくこと

まず出玉データが公開されているのにとても驚きました。
パチンコ店は真っ当な商売をしているはずないという思い込みもあり、イメージはいかにも怪しかったからです。

そしてそのデータを見ると優良店かそうでないのかがはっきりわかってしまうのです。

例えると
全国にあるスーパーで売っているバナナの値段がWEBで一覧で見れて、さらに時間単位で何本売れているかもわかる、最終的に今日はこれだけ売上がありました!がいつでも見れるのです。
もちろんバナナ以外の全商品が全部見れます。
誰にでもです。

これはすごいことだと思いました。

同時にこのデータを分析できるようになれば攻略できるかも知れないとも思いました。

全データを引っ張ればお店の黒字赤字もわかるのです。
年間データ、機種毎データ、曜日データ、日データ、時間データ。
さまざまな要素を引っ張り出せます。

早速エクセルにデータを移し替えて、傾向を探り、実践する日々が続きました。
そして期待値を求めて行動するということが習慣化されます。

期待値とは・・・
現在の行動が、将来に得られる結果に対してプラスやマイナスになると予想される値のこと(定義は色々ありますが、ここではパチスロでの解釈です)

ですので、今からする行動は期待値がプラス(勝てるか)かどうかを常に考えていました。

データを分析することが、もともと好きだったおかげと非日常感から得られる感覚に没頭するようになり、そこそこ稼げるようになるまで時間はあまりかかりませんでした。
上司もいない、縛りもない、休みも自由、そしてやればやるほど結果がついてくる、こんな世界があるんだと思いました。

それに実践して結果がすぐに出せるという要素に完全にハマってしまいました。
まさにゲーム感覚でした。

ただ誰の役にも立たない、将来の何のためにもならない、人にも言えず、人生がうまくいかない事を何かのせいにする自分の感覚を高揚感で麻痺させて、ただひたすら稼ぐことに集中することをとても後ろめたくも感じていました。

それでも社会との最低限のつながりは保っていたかったのでイベントのアルバイトは細々と続けていました。

そのイベントの現場でプロなんですか?と聞かれても、いつも否定していました。
自分がやっていることをどこかで認めてなかったんだと思います。

辞めたくても辞められない、そうこうしている間に10年という日々を費やしていまいました。

冒頭に書いた

30代に入り同世代で順調にいっている人たちは結婚し、子供を育て、早ければ家を買っている人もいる。

10年前に描いていた自分が欲しかったものは何も手入れることはできませんでした。

43歳~:ターニングポイント

そのころに転機が訪れます。
パチンコパチスロ業界は何年かに法律が変わっていくのですが、
健全な業界維持のためにギャンブル依存症をなくす施策として射幸心を煽ることが禁止になり、機種そのものにも仕様の変更がかかることになりました。

この大きな法改正によって実質の出玉が制限されることになったのです。
それによりお店が今までのように出玉を還元できなくなります。
そうなるとお客さんも減っていき、業界全体が沈み込んでいくとことになります。

周りのプレイヤーも辞めていく人がたくさんいました。

また色んな店舗の店長さんとも仲良かったので業界のことを聞ける機会もあり、それも辞める背中を押すきっかけになりました。

そしてこのタイミングで今やっているアルバイト先の会社から社員にならないか?とお話がたまたま舞い込んだのです。
ここが良い機会だと思い、完全にパチスロを辞めることにしました。

社会的には完全に落ちこぼれの道を歩んでしまいましたが
膨大な時間を割いてデータを分析し行動に移し続けた結果、10年もの間、勝ち続ける側にいれたことは僕にとっては大きな経験となりました。

辞めてから自分は実は相当なギャンブル依存症なんじゃないか?とかなり不安でしたが、酸いも甘いもほぼ知っているところまで来ていて、この先の結果がどうなるのかわかってしまうため、娯楽としての感覚はなかったので完全に手放すことが出来ました。
借金、ギャンブルとどちらも深いところまでいってしまいましたが、
そこから生還して手放せたことは大きな自信になっています。

人生の振り返り

夢も叶えることが出来ず、借金もギャンブルも経験した僕が心機一転やり直すために正社員として働く場所は兵庫ではなく東京を選びました。

またゼロからやり直そう、そう思ってちょうど上京したのが2020年2月末でした。
そうコロナによるパンデミックが本格的になる直前だったのです。

ご存じの通り上京してすぐに、世界の状況は一変してしまいました。

就職した会社のイベントの仕事も全てなくなりました。
ようやく頑張っていける思ったのに、スタートラインにも立つことができずにいました。

嘆いていても仕方ないので良い機会だと思い、ここでもう一度人生を振り返ることにしました。

  • 後悔していること
  • これからやりたいこと
  • 絶対に成し遂げたいこと
  • なぜ本気でやりたいと思ったことをやりきれなかったのか?
  • 自分は本当は何がやりたいのか?
  • 自分にしかできないことは何か?

僕を変えた出会い

そんなことを考えているときにYOUTUBEである人の動画が目に留まります。

その人は「夢を持って生きることの素晴らしさ」を本気で発信している女性社長です。

力強いメッセージがこもった動画を見ていつの間にか泣いている自分がいました。

YOUTUBEにある動画はエンタメ要素がとても多いですが、その人は想いのチカラを大真面目に発信していたのです。
あまりもの力強さに、自分の中に眠っていた誰かと一緒に泣くほどの感動体験を共有したかったんだという想いが蘇ってきました。

僕のメンターはこの人だ、そう確信しました。

それから約2年たった今もこの人以上のマインドを持っている人に出会ったことがありません。
今までを考えてみると、音楽をやりきれなかったのもギャンブルに逃げたのも、成功するマインドが足りなかったのかも知れない。
成功するためのマインドを身につけないとこの先も同じことが起きるだろうとこれまでの経験から感じていました。

その頃、ちょうど夢を叶えるために必要な「本物の考え方と知識と情報」が揃う場所というテーマでオンラインサロンを始めるという動画が流れてきて、初めてのオンラインサロンに迷わずに飛び込みました。

そこで学べるのは、これから現代を生き抜くために必要な3つのことを学べます。

ーこれから現代を生き抜くために必要な3つのことー
・マインド ・WEBマーケティング ・お金の知識 

ここでは同じ目標を持つたくさん仲間たちと出会うことが出来ました。

そしてサロン内で教えてくれるのは全てその道のスペシャリストで自分で会社を経営している方達です。
その中のWEBマーケティングを教えてくれてる方のマインドにも触れることになります。
「WEBマーケティングのチカラを使って、世の中を本気で良くしたい」という取り組みををされています。
YOUTUBEでは多くの人が見たことある動画のプロデュースをしていたり、インスタ、TikTok、ツイッター、WEBサイト、オンラインサロン経営など、WEB上のことなら全てに精通していて、大きな結果を出されています。

その方がYOUTUBEの動画編集を教えてくれる講座が出来たので、興味本位で受講することにしました。

実際に動画編集ができるようになり、自分のチャンネルで運用するようになると再生数や登録者数が増えていくことも嬉しかったのですが、それとは別で新たな発見がありました。

YOUTUBE側が用意してくれている動画を伸ばすために様々なデータが見れるYOUTUBE STUDIO というクリエイターツールがあったのです。

こちらはとても詳細にデータ分析ができるので、これはまるでパチスロにハマっていた時のデータ攻略みたいに扱えて、しかもそれが今度は人の役に立つことに使えるかも!とワクワクしました。

またYOUTUBEだけでなく、インスタ、ツイッターなどのSNSにはデータ分析ができる機能が備わっていることをここで初めて知りました。
WEBを勉強すれば、今までやってきた経験が無駄にならないかも知れないと思いました。

そんな時に総合WEBマーケターを本気で育てるスクールが開講することになり、即入会を決意して1年間かけて学べることになりました。

これが僕がWEBマーケティングを始めるきっかけとなります。

人生のミッション

昨今の世界の状況の移り変わりは激しく、これから日本の経済成長がしていく保証はどこにもありません。

コロナのようなパンデミック、世界各地で起きる戦争、誰も予想できないことが当たり前に起こる世界です。

AI技術の進歩やWEBの発展もとてつもないスピードで起きています。
それにともない5年後、10年後に職を失ったり、変わる人も多くなると予想されます。
会社に頼らずに自分のチカラで稼げるスキルを身につけて、少しでも世の中に貢献したい。
自分ができる価値提供で他者貢献をして、それで感動できれば最高だと思います。
人に感動してもらえることで自分も感動したい。
「心が震えるほどの感動をあなたと共に」を人生のテーマにすることにしました。
僕はこれからこのテーマに沿って行動していきます。

好きな場所で、好きな人と、好きなだけ、思いっきり仕事ができる。
WEBマーケティングを身につけて叶えたいと本気で思っています。

少しでも共感いただき、何かひとつでも行動するきっかけにしていただければこんなに嬉しいことはありません。

本当に長い文章を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

サポートが得意な駆け出しWEBマーケター
YOICHI
40代スキルゼロ知識ゼロからWEBマーケティングをスタート / WEBマーケを極めてワクワクと感動を届ける人になりたい / マインドと金融も学び中 / 将来のために全力資産形成もやってます/ FP2級 / PremirePro / Photoshop